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【貧しくなられた神の子】
イエスは、地上生涯において貧しさの極みを体験されました。無限の富をお持ちの方ですから、天の父に願って、豪勢な宣教活動を行なうこともできたはずです。
しかしイエスは、献金によって支えられ、貧しさの中で宣教活動を行なうことをよしとされました。イエスにとっては、人間の助けなしに、ご自分の力で宣教した方がどれだけ容易であったかしれません。しかしイエスは、そうしませんでした。
最も貧しい者でも、神のわざに参加することができるようにしてくださったのです。
私たちは、自分の働きや捧げ物が、神の計画においていったい何の足しになろうかと思うことがあります。他人と比較して、自分が何をしているか、できるかが問題ではありません。自分にできる方法で、神のわざに参加することが大事です。
(ピリピ人への手紙2:6~7)
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」
(マルコ12:41-44)
41 それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
42 そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
44 皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
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